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下手な言い訳・・・私の通信教育学習法の記事について [日々つれづれ]

 前の記事を書いていて思い出しました。私の通っていた学校は単位の取得が比較的難しく、レポートもなかなか通らないことが当時は多かった。それでそれらをどうやって攻略するかというノウハウの紹介をする記事をインターネット上の至るところで目にしました。もちろん有用なものも多かった。

 で私が同様の記事を書こうとしてうまくいかなかった原因を考えてみたのですが、せっかくのノウハウを開示したくないとかいうけちな考えではなくて、むしろ逆なのではと思っています。いろいろ考えると、細かいノウハウを開示することに意味を見出せない自分がいました。もちろん、身近なクラスメイトに問われれば、勉強の仕方を教えたりすることはありましたが、それは万人向けのノウハウではなく、特定の相談者にむけてカスタマイズしたアドバイスです。相談者の学習の進み具合や、理解度、志向などによってアドバイスの内容が異なってくるのです。むろんそれらの共通項のようなものを抜き出してエッセンスのようなものをつくれなくはないでしょう。しかし、その作業はいち学生には荷が重過ぎます。なにより自分が卒業するところが第一目標であって、余っているエネルギーがあるならば、自分の学習の進捗に振り向けるべきと考えたからです。
 
 と、いうことで、ですね。通信教育の7年間は、サークルに参加している時期も長かったけれど、自分なりの試行錯誤や孤独な思索の時間が非常に長かった。私はなぜこんな勉強をしているのかという自問に始まり、なぜこの科目は、こんな変な?古めかしい教科書を使っているのかとか、あらゆる疑問が湧いてくるのですが、それを誰かに聞けずに苦しんだ7年間といってもいいでしょう。

 で、禅問答のようで申し訳ないのですが、それは、先の見えない状況を自ら作り出して(それは自ら好き好んで、ややこしい通信教育など始めるからですけども)、自ら答え(のようなもの)を導き出す時間でした。
 
 やっかいだからありがたいというのは私は好きではないです。物事はシンプルであるべきだと思います。でも、実際の世の中はややこしいことが多い。私たちの身の回りを見渡してみてください。わが国と近隣諸国との外交関係をとってみても、あの国とも、この国とも、前の大戦のいきさつやら、互いの国の今の政権の思惑やらが複雑にからみあって、こんがらがっているように私には見えます。脈絡ないですが、もし首相とか外相だったら、事務方の意向を無視して(笑)、突然ソウルやら北京やらを訪問して、冷麺だか、北京ダックだかわかりませんが、向こうの食事を向こうの相手方と食しながら談笑して、「まあーお互いいろいろあるけど、お隣同士なかよくやりましょう」とか言ってしまうような気がする。あ、それではまるで、トランプ大統領のパフォーマンス外交と大して変わらないことになってしますね。つくづく私は政治家の器ではないですね(笑)。

 大学通信教育の話に戻しますと、もちろん、学習した内容そのもの、経済学だったり、社会政策だったり、財政学だったり統計学だったり・・は役に立つ内容です。されど、今振り返ってみると、それらの科目を履修して、学校に単位を認定されたこと自体の価値もさることながら、もしかするとそれ以上に、どうして、こうなんだ?と思い悩み、悪戦苦闘したこと自体に意味があったのではないかと思えます。
 実社会に出て、先の見えない状況に放り込まれたときに、自ら状況を切り開いていく力。自力で答えを導き出す精神力、そういうものを鍛えられたと思うのです。そこに価値があるとするならば、各科目をどう履修して単位を得るかというのは小さい問題に思えます。とにかく自分が面白いと思ったことを最後まで、もしくはある程度の区切りまで取り組んでみる。それによってみえてくるものがあると思うのです。

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