SSブログ

生まれ育った場所に関する筆者のつぶやき・月遅れの月餅は美味しかった [日々つれづれ]

 寒い。10度くらいですかね。

 かつて冬は氷点下まで気温がさがる寒冷地(長野県中部)で暮らしていたのに、ずいぶんなまったものです。

 1990年代のこと、いっとき子供の喘息の療養という名目で、1年間塩尻の雇用促進住宅というところに住んでいました。仕事は空港の近くのアパレル工場で、倉庫番とか、社員の送迎とか、雑用的なことをやっていました。肉体労働で、通勤も10分(マイカー)で楽でした。
 住まいの建物は比較的新しく、寒冷地仕様で窓が二重になっていて、鉄筋なんですが、冬、部屋に風呂上りに干していたタオルが凍って、信州って寒いんだなと思いました。

 いったい私は、何を言ってるんですかね。自分の出身地なのに。新宿からのJR特急の終着駅近く。父方祖父の家。借家で平成になったころに取り壊され、今は駐車場になっています。

 その借家は昭和初期のつくりで、断熱とかいう発想はありません。風呂もないし、冷蔵庫もない。冬なんかどうやって寒さをしのいでいたのか思い出せません。寒いという感覚はなかったです。

 二つ目の大学の卒論はこの地域のことを取り上げました。教員には論文にはオリジナリティがなければいけない。聞き取りをしないといけない・・等々指導を受けました。とにかく、キミにしか書けない論文を書けと。キミの比較優位性は何だと。なんか経済学っぽいでしょ(笑)。

 いろいろ考えて、先行論文をサイニイ(CiNii)で調べて、この地域を取り上げている人はいないので、ここのことをある程度アカデミックな文調で書けば、経済学部の卒論として認めてくれそうだったので、その方向で。

 2年くらいかかったですかね。文献をあたったり、市史を通読したり。かつて近所だったあたりをまわってみて、ご近所のAさんの家に人影があるので、突然お邪魔したりしました。たぶん50年ぶりでしたが、筆者のことを覚えていてくださって、非常にありがたかったです。

(そういえば、このことをAさんに報告しにいかないといけないですね。まだでした。だから、お前は人づきあいの仕方を知らないと親せきから叱られるのです。)

 筆者の弟や従弟から、「なんでキミだけそういう扱いなんだ?」とか「ずるい」とか言われるんですが、しょうがないですよ。

 この映画「3丁目の夕日」に出てきたころの松本の街で生活していて、街の人たちや当時の親せきと交流があったのは、10歳ちかく年上の筆者だけなんですから。弟や従弟は生まれる前の話。どうでも良いことですが、いまだにそういうの、あるんですよ。
 
 父方の祖父母からしたら筆者は初孫ですし、それなりに大事にしてもらったと思います。あるとき祖母が、その松本の祖父母の家でこう言いました。6歳ころの筆者に向かって、です。

「この家もこんなになっちまってねぇ。お前がなんとか建て直してくれや。」 

 父方の祖母は戸籍をたどると実家は地域のお嬢様(注)で、嫁ぎ先の私の祖父の家の荒れ方を見て心を痛めていたのです。

 小学校一年生の筆者は意味が分かりませんでしたが、いまだにどうしたらその祖母との約束を守れるか、心のどこかにひっかかっています。

 そういうことは、大人・・・私の父や伯母・・・に言ってほしかったですが、言っても無駄だと思ったんでしょうか。実際、身内の悪口は言いたくないけど、父も伯母もそういうことには関心がなかったと思います。

 オカネの問題ではなくて、親戚づきあいとか、近所との関係性とか、そういうことには関心がなかったですね。オカネは高度成長期のころだし、東京に出て働けばどうにかなった。私の父や伯母が現役だったころ(1970-1980年代)は今のように地価も高くないので、都会で家を買ったりしている。だからオカネの問題ではないのです。文京区内のマンションだって2千万円以下で買っていたでしょう。

 他方、祖母が買った(正確には市から借り受けた)墓も前に書いたように管理料未納の放置で、父の納骨ができない状況でした。

 私がちゃんとやってくれと申し入れすると「生きている人の生活が第一」という。ヨーロッパやハワイに遊びに行くカネがあったら、墓の管理料を払って、ボロボロの墓を直してくれといいました。本当に困ったものです。
 
 たとえば、安曇野にある、私の実母の実家との関係。人が死ぬのはしょうがない。生きている人はいつか死にます。
 でも実母が亡くなってから、実母の実家と疎遠になるってどういうこと?私は絶対に許せませんでしたが、子供で行動に起こせなかった。
 
 大学に入って20歳になったころでしょうか。一人で行く勇気がなくて、松本の従弟に頼んで一緒に行ってもらって、行きました。何十年ぶりかに。電話もわからないから突然訪ねて行って。実母のきょうだいに当たる親戚が歓待してくれて、行ってみて本当に良かったです。

 なんの話かわからなくなってきましたが、年に一回、祖父の家の近所を通り、私が一年間だけ通っていた小学校の前を通る、地元のマラソン大会で走ることが祖母へのささやかな供養であり、筆者が5歳の時に他界した実母への供養でもあると信じて、明日も走ってきますよ。

 全然練習してない(9月から11月の今までの練習距離は100キロに満たないです)から、全部あるきかもしれないけど、6時間以内にはゴールできるでしょう。
(注)祖母の旧姓でたどると地域の史跡になっている旧家屋があります。どういう関係性かはわかりません。

 ついでに祖父の家の隣のKさんは金属商を営んでいました。
筆者が成人になってからから気づいたのですが、安曇野出身で、単身渡米したりして第二次大戦戦時下の日記が岩波書店から出版されて有名になった著作家と同姓で、Kおじさんは田舎なのになぜかハイカラな感じがして、遠縁の親せきなのかなと思ったりします。
 都会から来たクルマが迷って道を聴くんですよ。
「あ、乗鞍ね。あのSignalを右に曲がってください。国道に出ますから」っていうんですよ。信号でなく、Sinal(シグナル)。いまだに忘れません。

========================================

 旅の写真というか、旅の思い出。2024年9月の上海・香港。知人が、いや私の師匠が、またも私のために買ってくださった月餅です。月遅れですが、一昨日頂きました。美味しかった。来年も月餅の時季に香港や上海に行きたい。

現地の知人に
「お前が来ると面倒くさいから、当分いいよ」
といわれると思うんですが(笑)。いや、次はビザもちゃんと手続きするし、両替もしますから・・
 
この投稿をInstagramで見る

(@azumino_kaku)がシェアした投稿


nice!(7)  コメント(0)