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直下地震対策:木賃ベルト地帯の防災対策を急げ [街づくり]

 首都直下地震:木造密集、防火に課題 都、被害想定見直し (毎日新聞 2012年3月31日 東京朝刊)
「文部科学省の研究チームが30日に公表した首都直下地震の震度分布は、政治・経済・行政の中枢を脅かす危機を改めて浮き彫りにした。「最大震度7」を念頭に、防災計画の見直しや建物の耐震化が急務だ。
(略)
 喫緊の課題の一つが、JR山手線の外側や東部の下町に広がる木密地域を「火災に強い町」にすること木造家屋が揺れで倒壊すると火災被害が広がりやすいため、97年から耐震化工事などの対策に取り組んできた。だが不動産の権利関係が複雑だったり高齢者の割合も高いなど、思うように進んでいない。」http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120331ddm002040139000c.html より引用


関連箇所を (越沢明 東京の都市計画 岩波新書 1991) から引用します。

「震災と戦災という二度の復興事業、戦前の計画的な郊外地開発、このいずれからもこぼれ落ちてしまった地域が東京には広大に存在する。狭く屈曲した街路が迷路のように続き、公園や広場などのオープンスペースに乏しい。これらの地域には、木造賃貸アパートが密集することから木賃ベルト地帯と呼ばれる。(略)少なくとも消防車などの緊急車両の出入りに不都合がある状態を放置しておくことは、都市計画の立場からは認めるわけにはいかない。」 (同書 pp.251-252)

東京の都市計画は未完であり、「後藤新平以来、脈々と続いてきた東京都市計画のグランドデザインは、戦災復興計画の圧縮によって失われ、今日に至った」(同書 pp.256)と主張する。

書店で、東京の防災マップ、東京の災害時帰宅支援マップの類を開いてみて下さい。
建物の倒壊、火災の危険性が高い地域を赤などのゾーンで表示しているはずです。

木賃ベルト地帯を示す地図の一例:
軟弱地盤の下町と木賃ベルト地帯 東京大学グローバルCOEプログラムのページより
http://csur.t.u-tokyo.ac.jp/publication/sur/pdf/02/sur02_25_Profile.pdf

「東京では高度成長期に人口が集中し、その受け皿として都心10-15kmの圏域で住宅が蓄積した。「木賃ベルト」と呼ばれるこの区域では、基盤未整備のまま市街化が進められたため、広範な木造密集市街地が形成された。建物の老朽化、狭隘道路等の問題からこれらの地域では地震後の火災の危険性が極めて高く、初期消火に失敗すれば十数Km2単位で市街地が焼失する可能性がある。」(同ページより抜粋)
 

私たちは、明治、大正、昭和の先人たちが遺してくれた、都市計画のインフラの遺産を食いつぶしながら、未完成の都市の中で生きているのです。
また、薄氷を踏むような危ういバランスと脆弱な都市基盤の上に、わが国の首都機能が配置されています。
先の震災での帰宅難民の事象一つとってみても、いかに首都東京の地震対策が弱いかがはっきりしたと思います。(ですから私は東京がオリンピックに立候補することに非常に疑問を感じます。)

まずは私たちが、そういう認識を持つことが肝要だと思います。
震災、戦災、オリンピックと、東京は今までに何度もあった都市再生のチャンスを逸してきた。(私はそのことが返す返す残念でなりません。)
その様子は上に挙げた岩波新書に詳しく紹介されています。
興味のある方はぜひご一読下さい。

東京の都市計画 (岩波新書)

東京の都市計画 (岩波新書)

  • 作者: 越沢 明
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/12/20
  • メディア: 新書




私たちに残された時間がどれだけあるかわからないけれど、東京の持てる資源をフルに活用して対策を急ぐべきだと考えています。


新しい時代の街づくり [街づくり]

このブログの筆者の経歴については、もうすでに何度かご紹介していますが、初めてお読みになる方もいらっしゃると思いますので、再度ご紹介したいと思います。
信州豊科で生まれ、松本市内の祖父の借家や、父の仕事の関係で都内や埼玉などを転々とし、今は東京郊外に暮らしています。

社会に出てからは、企業で総務、経理、生産管理、会計システム導入などを経験し、今はシステム管理が主たる担当です。
大学は法学部の政治経済学科に進みましたが、あまり学校には行かずバイトばかりでお恥ずかしながら勉強もしませんでした。
そんな風ですから、社会人になってから、経済書などを読んでもなんのことかさっぱりわからずじまい。
政治経済学科ですから、当然、経済学もカリキュラムには入っています。
経済がわからないとすれば、それはカリキュラムのせいではなく、私のせいでしょう。
ともかく、社会に出ても実際の経済を見る力がない。これは困ります。
自業自得かもしれませんが、経済新聞など読むたびにある種の自己嫌悪に陥っていました。

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(松本市内 中山付近から望む常念岳などの山なみと、松本南部の市街 2007年2月)

これではいけないと、経済学の本など買ってきて読むものの、やはりわからないという試行錯誤も続き、しかしながら公私いろいろあり勉強したい気持ちも挫折しがちでした。
2007年に一年発起?して大学通信教育で経済の勉強を始めました。それからすでに5年が経とうとしています。
こちらのほうのカリキュラムは、まだ道半ば。
単位はまだ残っているものの、5年を区切りにいろいろ包括して、ひとつの方向性を見つけ、学習の成果を収斂させていくべき時期かもしれませんが、なかなか一点には定まりません。

このブログでは、頻繁に信州や松本の話題を取り上げています。
ことわざで三つ子の魂なんとやら申しますが、私にとっても、ひとつの原風景として、松本の市内から見る山の景色が刷り込まれているように思います。
滞在した年数で数えてみると信州より埼玉などのほうがよほど長いです。

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(市内伊勢町の交差点付近 2007年2月)

しかし、あなたにとってふるさとの風景とは、と聞かれたとしたら、私は松本の向島町にあった祖父の家と、町内の風景が真っ先に浮かびます。
安曇野生まれの祖父は、市内で戦時中に営んでいた軍需関係の仕事を畳み、隠居をしていたようです。
隣の金属商のおじさん、向かいの元気なおばさんと、やんちゃな息子たち、はす向かいの魚屋さん、裏手の豆腐屋さん、同じく近所に住む、同級のI君、Y君・・。
日本全国どこにでもあるような、とても居心地の良い街のコミュニティがありました。

私が信州の小さな街の風景にこだわる理由はそこにあるのだと思います。
おそらく誰しも、心の中になくしたくない思い出、風景があるのでしょう。

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(伊勢町通り 2007年2月)

2007年の早春、ソネットブログのJamaicaさんのお誘いで木曽に遊びに行き、帰りに松本の街を訪れ市内の宿に泊まってみた。
下の写真は、朝の散歩のときに撮影したもの。
松本城に通じる大名町通りの電気店の跡です。
かつては、通りに面したガラスのウインドウに大型のTVセットが並び、奥には高級オーディオが鎮座していたように記憶しています。
たしか1970年頃には、往来には人の流れがもっと頻繁にありました。
閉店した店のシャッターの前に描かれたパステルタッチの絵に描かれた明るい風景。
しかし目の前に、厳然と横たわる現実。
旅の前から、信州Espresso diaryの斉藤さんのブログなどで地方の様子についてある程度知っていたつもりではありました。
しかし百聞は一見にしかず。
かつての69や伊勢町の賑わいと、活気を失いつつある現況との落差に私は一旅行者として、あ然とするほかありませんでした。

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「時代が違うんだよ」といってしまえばそれまでかもしれません。
オーディオやTVが高級品だった時代は去ってコモディティ化が進み、パソコンや携帯電話の時代になっても郊外型家電量販店はそれなりに繁盛しているようです。
中信地方の文字通り中心だった街も、時代の流れの中で、かつての地域の経済センターとしての求心力を失いつつあるようにも見えます。

人口減少、高齢化の進展で、このまま地方の都市は縮小し、街自体が老朽化していくしかないのか。ふとそんな思いがよぎりました。
いやまて、人が高齢化するのと、街の構造が老朽化し、元気がなくなっていくこととは関係がないのではないか。
高齢化しても、元気な街というのは実現可能ではないか。
以来それが自分のひとつのテーマとなりました。

昨年の梅雨どき、私は用があって帰郷し、用を片付けた後、イトコと一緒に久々に中心市街を歩いて周りました。
そのときの様子を記事にしたものが残っています。
松本の街は再開発などだいぶ様子が変わりましたが、写真にある中町のあたりにはまだまだ歴史を感じさせるたたずまいが濃厚に残っています。

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最近手に取った本の著者の取り組みに、私は共感します。
「国も地方も財政は非常に厳しい。(略)これからの先行きが見えない時代には、「人」と「知恵」が必要だ。(略)
ハコモノに期待するのではなく、商店街に任せるのでもない。街をささえていこうとするやる気のある「人」の気持ちを奮い立たせ、その気持ちに火をつける、小さくてもそんなまちづくりがこれからは必要でないかと思う。」(長坂泰行 中心市街地活性化のツボ 今私たちができること 学芸出版社 2011 pp.18-19)

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(市内 上土町近くの洋菓子店 2011年5月)

人と、知恵、「地域の固有の文化や資源を生かそうとする市民の試み」(久繁哲之介 地域再生の罠 2010 ちくま新書 pp.17)が、新しい時代を切り拓いていく。
国や県などから下りてきた計画に沿って街をつくるのではなく、そこに住む人自らが、地元の事情を考え、自らが暮らしやすく、また魅力のある街とは何かを自分たちで考え、議論しながら、街をつくっていく。
(その先は私の希望ですが、その街の歴史や文化に根ざした景観を大事にした街並み、その街独特の風情をもった街並みであってほしいと願っています。)
漠然とですが、私はそんなイメージを持っています。

今までなかなか機会がありませんでしたが、今年はぜひ時間を作りわが街・松本を訪れて文化、歴史、資源に注目した街づくりについて考えてみたいと思っています。


道路建設・ 便利さと引き換えに失われるもの [街づくり]

東京外環道の用地買収が始まるようです。今、この時代に道路建設に巨額の工費を投じるのでしょうか。こうした環状道路は、渋滞対策(災害対策?)が大義名分となっているようですが、「道路を造ると誘発交通により、新たにクルマが湧き出てくるように交通量が増える」という指摘があります。(松下文洋 道路の経済学 講談社現代新書 2005 pp.5)
巨額の工費を投じても、結果として渋滞がなくなるどころか、交通量が増えてCO2の排出量が増える恐れさえあるかもしれません。

夜のニュースを見ていたら、浜松かどこかで、公営のハコモノを整理縮小する話題を取り上げていた。体育館、図書館など公共の建物を維持する費用がかさむため、取り壊したりし始めているという。
なんでもわが国のあちこちで高度成長の時代につくったインフラが更新の時期を迎えて、設備投資を更新する時期に差し掛かっているという。

ここ何回かの記事で経済規模の縮小を前提とした記事を書いてきましたが、私とてわが国の経済規模の縮小を望んでいるわけではありません。

また、私は道路建設反対派では必ずしもありません。必要なものはつくればいい。
ただし、今のわが国の人口構成、そのほかの条件を考えると、いろんなものの、規模を縮小する方向で計画するのが順当ではないでしょうか。
また時代の流れににふさわしいインフラに重点投資すべきではないのかと考えています。
また、経済規模の縮小を前提として社会の全体の仕組みを考え直すときにさしかかっているのではないかということを考えています。
もちろん私だって、自家用車や、自転車に乗るときには道路を利用します。新しい道ができれば便利には違いない。
しかし、便利さと引き換えに失うものがあるのでは、これはどうなんだろうと考えてしまうのです。
新しい道路ができれば、反対派の人たちが主張するように、地域コミュニティが壊されるのは間違いがないでしょう。
私の住む地域も、高齢化が進んでいます。歩いてご近所で用が足せる街づくりがふさわしいといっているのに、いまさら、高規格道路のロードサイドに大型店舗ができたところで、おじいちゃん、おばあちゃんにはありがたくも何ともないに違いありません。
むしろ、いつも歩いて通っていた近所の公民館、役所、福祉施設などの間に大きな道路ができてしまい、一番近くの横断歩道まで道沿いに10分も20分も掛けて歩かなければならなくなるほうが問題だと思うのです。これは時代の流れに逆行した公共投資といえないでしょうか?

わが町の議会だよりなどを見ていても、こういう視点で市政、街づくりを考えている人があまり見当たらないように思います。巨費を掛けて便利さを追求するのであれば、その利便性と引き換えに犠牲になること、犠牲になる人たちに目配りをすべきです。


帝都復興計画 エッジガード [街づくり]

”帝都復興計画とは、関東大震災で壊滅的な被害を受けた首都東京の復興計画であり、1923年9月6日、当時の山本権兵衛内閣の内相・後藤新平が「帝都復興の議」をまとめ閣議に提案する。
9月12日 帝都復興三則の詔書が出され、東京の再建は旧状の復旧ではなく、面目を一新する復興が政府の公式方針とされた。
後藤新平は南満州、台湾などの都市計画ですでに経験済みの大胆な手法で東京の都市再生を試みたが、世間の無理解と反対に遭い計画は大幅に縮小された形で1930年一応の事業完了を見る。
その後、東京は、第二次大戦後の戦災復興計画の実施に失敗し、帝都復興計画の遺産を食い潰しているのが現状である。”
(越沢明 東京の都市計画 岩波書店 1991 pp.34-85 より)

東京の都市計画 (岩波新書)

東京の都市計画 (岩波新書)

  • 作者: 越沢 明
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/12/20
  • メディア: 新書


この書を読んでいて興味深かった点:
① 帝都復興院は、震災のわずか数週間後の9月27日に発足している。東日本大震災の復興庁が発足するまで11ヶ月を要したのと対照的である。

「都市再生」を問う―建築無制限時代の到来 (岩波新書)

「都市再生」を問う―建築無制限時代の到来 (岩波新書)

  • 作者: 五十嵐 敬喜
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2003/04/18
  • メディア: 新書


② 後藤新平はじめ明治、大正の政治家が骨太な歴史観、国家観をもって街づくりに臨んでいるのに対し、小泉内閣の都市再生をはじめ、現代の政治家は都市計画をカネ儲け・利権のネタとしか考えていないようにも思え、とくに歴史観、街づくりの哲学の欠如が顕著。
わが国の長い歴史、江戸、明治、大正、昭和、平成、そして21世紀の今日。
自分たちはどのような歴史の文脈の中で生き、どのような都市、どのような社会をつくろうとしているのかが、たとえば東京の街づくりを見ていても、まったく不明確である。

このブログでも書いていますように、筆者は、都心に超高層ビルをドンドン建て、自動車を中心とした交通体系で都市を支え、そしてそれこそが国の活力だと考える時代はすでに終焉を迎えつつあると思いますが、この「20世紀型の都市開発」という思想は強力にわが国の社会に根を下ろしているようにも見えます。

21世紀の街づくりのあり方について、専門家は
「都市拡張時代が終わり(中略)、これまで作り上げてきた都市のストックをいかに更新していくか、総人口の減少と大都市への集中の鈍化への対応」をあげています。(田中重好 「都市計画と街づくり」/藤田・吉原編 都市社会学 有斐閣 1999 pp.206-207)

本来、都市計画は、行政が一方的につくり、住民が従うというものではないのでしょう。
わが国でも、自分たちの街がどのようにあるべきか、市民、住民の一人ひとりがしっかり考え、実現していくという時代が訪れると思っています。


さて、クルマの一ヶ月点検の際にドアのエッジガードをつけました。
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メーカーのパーツはフロントのみ。後ろはイエローハットで買ったパーツを自分で装着。
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ノートパソコン用のワイヤー錠/ 事業所閉鎖の費用負担 [街づくり]

ノートパソコン用のワイヤー錠を買いました。
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こんな感じですね。セキュリティ用の穴に専用の金具を通し、南京錠で止めます。
ワイヤーはスチール家具の支柱などに通します。

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リニア新幹線、整備新幹線、地方の空港・・
そんなに高速交通をドンドン整備してどうするんだろうと思います。
既存の鉄道や道路の維持管理だけでも大変なのに。

前の記事で工場の撤退問題を書きました。
実際、最近、いろんなところで工場閉鎖のニュースを目にします。

半導体大手の米TI、大分・日出工場を閉鎖へ 1年半以内に 2012.1.24 11:33 (MSN産経ニュース)
「日本法人の日本テキサス・インスツルメンツは日出工場の譲渡先を探すなど、雇用維持のための方策も検討するという。」
私事ですが、私が社会人になって最初に勤めた京浜工業地帯の町工場は半導体製造装置の会社で、TIもお得意さまの一つ。営業の手伝いで茨城・美浦の工場にお邪魔したこともありました。

「工場 閉鎖」でニュースを検索するだけで、まあ、たくさんのニュースが出てきてびっくり。

パナソニック系会社:日置閉鎖問題 早期退職182人が希望 40、50代の再就職厳しく /鹿児島 /ヤフーニュース/毎日新聞 2月9日(木)15時24分配信
鹿児島県日置市の電子機器製造会社「パナソニックデバイスオプティカルセミコンダクター」(デ社)の工場閉鎖問題。

光市:職員採用、倍率約30倍に シルトロニック・ジャパン離職者対象 /山口
ヤフーニュース/毎日新聞 2月8日(水)15時42分配信 
 シルトロニックはシリコンウエハーの製造の会社。

ものづくりは日本の根幹などと言いますが、このところの経済状況の悪化でわが国の製造業もかなり追い詰められてきているのだと思います。

前の記事で書いた工場の話を続けます。JR予讃線の終点、宇和島でレンタカーを借り、国道56号線を南下、御荘、城辺の街に出ます。宇和海に面した入り江に御荘、深浦といった漁港があります。
そこから国道は再び山間に入り、県境の峠(トンネルを)越えると、高知県、そのまま下ると宿毛の市街。
その国道56号線の峠に向かう中腹とでも呼ぶあたりのいくぶん平坦な場所につくられた工場は、あたりで唯一の大規模な事業所だったように記憶しています。

私は、2000年に会社を辞めてしまったため(注1)、工場閉鎖の詳細は存じませんでした。
しかし、一時は住民票を移そうかと思ったくらい頻繁に通った場所のことは気になっていました。

ウイキペディアの愛南町の記述を見ると、雇用の問題はいまだに尾を引いているようです。
工場はおそらく千人単位の規模で従業員を雇用していたと思います。
都会のように、工場がなくなっても他にいくらでも雇用の機会があるところはまだ良いですが、この愛南のように、他に雇用機会の少ないところは大変です。
工場の近くに、工場を訪問する客を狙った宿が二軒ほどありましたが、それらも今は廃業してしまっているのでしょうか。
(一度再訪してみたいとは思っていますが、なかなかかないません。)
事業所閉鎖では多くの場合、グループ企業で雇用を吸収するという手法が取られますが、家族の事情で転勤できない人もいるでしょう。
工場をつくるとき、撤退するとき、企業はきちんと社会的責任を果たすべきではないかというのが筆者の意見です。 

工場閉鎖の費用として、用地の原状回復などの費用は企業が負担すると思いますが、他方、企業は雇用・失業者対策をどこまで行なっているのでしょうか。
「企業の財産は人、人材は人財」とは、言うものの、いざとなったら、その人を切るのが資本の論理です。
切られた人のケアは、結局は、失業保険給付、生活保護など社会保障制度ですることになり、公的負担でその費用をまかっているのではないでしょうか。
企業が面倒を見ない分は、結局は、労働者個人、または社会全体で負担をしていることになっていると思うのです。

他方、雇用・失業の問題は、場所、働く人の年齢、職種、産業構造などの不適合も大きいと思います。これらは、市場原理、資本の論理ではどうにもなりません。
社会全体で見れば、労働力は足りなくなるといわれているのに、街には失業者があふれ、新卒の就職難もまだまだ深刻です。
こうした、労働の問題、失業対策、積極的雇用政策(教育訓練など)、もっといえば産業構造の転換への取り組みも含め、政府が真剣に政策として取り組むべき課題でもあると思います。

(注1)
吸収合併で私の行なっていた仕事がなくなりました。
力関係から言っても「吸収する側」のシステムが残り、「される側」は切られます。
まして合併の目的が、合理化、コストダウンであれば、巨額の費用を投じてつくったシステムの維持管理を継続するのは難しい状況でした。


地域の工場の撤退に伴う問題 [街づくり]

このニュースは自治体が進出企業に支給した補助金を、約束が違うから返して欲しいという話しです。
わが国でも、円高の進行もあって近年、国内事業所の閉鎖、海外移転がみられます。
その際に従業員をグループ内の異動で吸収したりして調整していますが、もうひとつ、地域社会への視点というものが欠けている(注1)のでは、との思いがあります。
地方税の納税義務は果たしているというのかもしれませんが、ちょっとそれは違うと思います。今まで利益を十分還元してきたというのかもしれませんが、長期的に見て、立地する街や、そこに暮らす人たちの人生設計に与える影響は甚大です。

そんなわけで地域の工場が操業をやめたり閉鎖したりした場合の影響の大きさは計り知れず、単に一企業の経営判断ということで片付けられる問題なのだろうかと感じています。

こんなことを書くと、ますます日本での工場立地は不利になるという意見もあるかと思いますが、海外の事例では、工場閉鎖に対して社会的に規制を加えている例があるという。
フランスでの事例を研究した論文に下記のものがあります。
「フランスにおける工場閉鎖に伴う雇用喪失と地域経済への対応策に関する事例研究(都市計画)」 清水 陽子/井上 芳恵/中山 徹 (日本建築学会技術報告集    日本建築学会技術報告集 14(28), 583-588, 2008-10-20  社団法人日本建築学会)

によるとフランスでは、工場など閉鎖の際の企業の社会的責任を明確にし、1.労組との合意、 2.労働者の失業に対する責任、 3. 地域に対する責任、という段階を踏んで地域や働く人たちへの影響に配慮する仕組みを構築しています。 3. 地域に対する責任では、企業から地域に対して地域活性化のための費用負担が行なわれているとのことです。

この論文によると、日本では事業所の閉鎖について何の制約も取り決めもなく、企業の判断だけで実施し、結果生じた不利益は労働者、取引先、地域社会が引き受けており、閉鎖を決めた企業は、閉鎖による利益を内部化(利益を自分のものとする)し、閉鎖がもたらす不利益は外部化(企業以外負担とすること 注2)していると指摘しています。

上のニュースの文脈では、マツダは海外での生産稼働率が低いとして、良くない事例として紹介されていますが、それは利益重視の投資家としての視点に偏りすぎた見方ではないだろうかと思います。
もちろん利益が上がらなければ経営は成り立たないのは百も承知ですが、経営の視点としてあまりに一面的に過ぎると思うのです。

空洞化が進むといわれる日本の製造業のあり方を再考してみるときに差し掛かっているように思います。

(注1) 私は1996年頃、ある外資系電子部品企業の生産委託先の工場に詰めて仕事をしていたことがあります。四国、愛媛と高知の県境近くの山の中を開いて広大な工場が立地していました。私の居た企業は競合他社に買収されて、その工場での委託生産をやめることになり、結局、その企業は工場閉鎖を決めたようです。今はグーグルマップか何かで同地点を探すと、まったく別の工場が出てきます。資本の論理だから仕方ないと思っていましたが、そこで働いていた人の暮らしはどうなったのだろうという思いが今でもあります。
お世話になったIさんは、今は松山で別の仕事をしているようです。

(注2)たとえば、「自動車の社会的費用」といわれる説では、自動車を運転して得られる便益(内部経済)は運行者が利得し、他方、自動車の運行に伴って生じる費用は、「外部不経済」として、道路の周辺住民などが騒音、排ガス、交通事故による経済損失などとして負担するという説があります。
自動車運行者は、自賠責保険や自動車税などで外部不経済の一部を負担するが、その負担はごく一部であり、きわめて公平を欠くという主張です。
(宇沢 弘文 自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47) 1974 岩波書店 )


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